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龍ケ崎ヒストリー第8回

第8回「頼政神社」 2021年11月号

源頼政は平安時代末期の武将で、清和源氏でありながら平家政権で中核をなし、平清盛からも信頼篤く、源氏としては突出した従三位の地位を得ていて、源三位と呼ばれていました。しかし、頼政は平家の専横ぶりに怒りをおぼえ、平氏打倒を呼びかける以仁王(モチヒトオウ-後白河天王の子)と共謀し、平氏打倒を計画し
ます。こうして治承4年(1180)「宇治平等院の戦い」が勃発しますが、計略は露見し、以仁王と頼政は不利な戦いを強いられました。この戦いで頼政は敵方に追い込まれ自害、以仁王は敵に打たれ戦死と記録されています。
以仁王の反乱は失敗に終わりましたが、源頼朝を中心とした打倒平家に火が付きます。そして俗に源平合戦と呼ばれている6年にも及ぶ内乱「治承・寿永の乱」(1180-85)が始まりました。
この戦いで、源頼政を崇敬する下河辺政義は頼朝に従って勝利を収めます。その恩賞として頼朝より本拠地の古河他常陸国南部の地を与えらました。その中には龍ケ崎も含まれています。
古河に源三位頼政を祭神とする頼政神社が所在しますが、これは下河辺によって建立されたのではないかと?そして下河辺はその後、龍ケ崎のまちづくりに着手しますが、龍ケ崎の頼政神社は、古河より分祀されたと思われますが、その経緯は分かっていません。
現在の頼政神社は神木に守られた形の小さな祠ですが、明治初期まではりっぱな社殿があり、多くの参拝者が訪れたといいます。
なお、伝説では頼政が自害する時「吾が首を東国に運んでくれ。吾が止まらんと欲するところに行き当たれば、首が重くなる。そこに吾が首を葬ってくれ。」と家臣に遺言を託します。さて、家臣はいわれたとおり、首を東国に運ぶと、突然馬が動かなくなるほど首が重くなり、そこに首を葬った。この伝説が頼政神社の由
縁となっています。