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龍ケ崎ヒストリー第7回
第7回「新田義貞の墓」2021年10月号
1338年(延元3/建武5)南北朝の動乱で南朝の武将新田義貞は足利尊氏率いる北朝軍に敗れ、越前藤島(現福井県福井市)にて討ち死にしました。亡骸は近くの称念寺(現福井県坂井市)住職により手厚く埋葬されました。
時は移り、文明年間(1469-1486)上州太田(現群馬県太田市)金山城の重臣横瀬貞氏は称念寺より祖父にあたる新田義貞の遺骨を金山城内に移し金龍寺を創建しました。当時の金山城主は同じく新田一族の岩松家純でしたが、横瀬氏は専横を極めておりました。年月が経ち、横瀬氏は下剋上により金山城の主となり、本拠地の由良の荘を採って由良と改めました。
由良成繁の代、1584年(天正12)小田原北条軍が難攻不落といわれた金山城を軍略をもって攻め落とします。由良氏は嫡男国繁を人質に取られ北条方の軍門に下り、桐生城へ本拠を移します。それに伴い金龍寺も桐生城内へ移されました。
1590年(天正18)羽柴秀吉軍が小田原城を攻撃し、北条支配地の上州にも侵攻します。病死した成繁に代わり、一軍を纏めたのが、成繁の正室赤井氏(妙尼印)でありました。赤井氏は秘密裏に羽柴軍の大将前田利家に馳せ参じ、孫の貞繁(国繁長子)を大将として秀吉方として参戦する旨を伝えました。
こうして秀吉方として戦った由良氏は北条氏滅亡後、秀吉より常陸国牛久5,400石の領地を与えられ、嫡男の由良国繁が岡見氏滅亡後の牛久城主となりました。
当初、金龍寺は現在の得月院(牛久市城中町)に置かれましたが、直ぐに岡見氏菩提寺であった東林寺(牛久市新地町)を金龍寺と改め義貞の墓も移しました。
しかし、由良氏の領地は国繁没後没収となり、新たに牛久藩主となったのは関ヶ原の功労者山口重政でした。
行き場を失った由良氏の菩提寺金龍寺は、1666年(寛文6)幕府の庇護の下、現在地の若柴に移されました。
旧水戸街道若柴宿の一角、新田義貞の墓は金龍寺本堂の裏手にひっそりと佇んでいます。四基並んだ五輪塔の向かって左から新田義貞、横瀬貞氏、由良国繁、不明の順に並んでいます。