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龍ケ崎ヒストリー第17回

「竜ヶ崎街道踏切と源橋」2024年2月号

昭和初期の県道竜ヶ崎潮来線(現県道5号線)は、国道6号線(現県道208)の小通幸谷町字北浦の文巻橋東詰が龍ケ崎側の起点となっていました。ここから右(佐貫方面に向かって)に坂を下り陸前浜街道(旧水戸街道)と重複する形で小通幸谷集落を通り、竜ヶ崎街道踏切を渡って龍ケ崎市街地に向かうルートでした。そして、この道が国道6号線から龍ケ崎市街地に向かう重要な道であり、小通幸谷の踏切には竜ヶ崎街道踏切と名前が付けられました。

昭和30年代になると、開発が進む鹿島臨海工業地帯や関東最大の穀倉地帯水郷と東京を結ぶ重要路線として交通量が爆発的に増加し、竜ヶ崎街道踏切は渋滞と事故が多発し、魔の踏み切りといわれるようになりました。

この踏切を回避するため、昭和33年(1958)龍ケ崎市は沿線市町村を巻き込んで関係所管に改善を呼びかけました。その結果、国と県、国鉄(現JR東日本)は立体交差にするための跨線橋の建設を行いました。また、この工事に合わせて県は県道竜ヶ崎潮来線の全面的な舗装工事を行いました。工事は大規模となり4年の歳月を要し昭和37年(1962)に完成しました。

立体交差完成に伴い、竜ヶ崎潮来線の起点が500mほど佐貫寄りよりに変更され、小通幸谷町字中通(小通幸谷交差点)の諸岡本社(現Qisモール)の所から大きく鋭角に回り(藤代方面から)龍ケ崎市街地に向かう、つまり現在のルートに変わったのでした。

なお、立体交差のために建設された跨線橋は地域発展の起源となるように、また、この事業に尽力された当時の市長荒井源太郎氏の源と、二つの意味を込めて源橋(みなもとはし)と命名されました。

源橋(龍ケ崎市駅入口交差点)