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龍ケ崎ヒストリー第1回

第1回「一力長五郎」2021年2月号

一力長五郎、本名は山崎安好で、文化12年(1815)現在の茨城県龍ケ崎市若柴町字富士ノ下に生まれます。最初の四股名は藤ヶ峰、そして早房、一力と改名、嘉永2年(1849)11月場所33才で新入幕を果し、安政6年(1859)には前頭筆頭にまで番付を上げます。
大関(当時は大関が最高位)に強く、大物食いの長五郎といわれましたが、巡業先にて病死しました。安政6年8月25日、奥州一ノ関の巡業先と記録されています。
急死した一力は地元の好角家によって一関市の願成寺(曹洞宗)に埋葬されました。一方、あまり知られておりませんが、龍ケ崎の若柴町金龍寺にも一力長五郎の墓があります。こちらは遺族によって願成寺から金龍寺に移管されたものと思われます。今では無縁仏になっております。
龍ケ崎にはもう一つ一力長五郎の墓があります。若柴町の常磐線富士ノ下踏切の近くで、電車の中からでもよく見えます。一力は死を前にして「牛久沼に逆さ富士の映る美しい場所を選んで埋葬してくれ」と、遺言を残したそうです。その遺言によって地元の一力を愛する人たちが若柴村富士ノ下、牛久沼畔に墓石を建て供養したものと思われます。墓石には戒名ではなく「一力長五郎の墓」と刻まれています。この墓石が建った当時は牛久沼に映る美しい逆さ富士が見えたはずです。その後牛久沼の東側は水戸街道(現国道6号)施設のため埋め立てられ、一力の墓石がある場所からは逆さ富士はおろか牛久沼さえ見えなくなってしまいました。
なお、若柴町の星宮神社には、一力長五郎が奉納した一対の灯籠が現存します。一力の信心深さと郷土を思う気持ちが伝わって来ます。

星宮神社、一力寄贈の灯篭