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龍ケ崎ヒストリー第9回

第9回「女化神社飛び地の謎」 2022年5月号

女化神社の創建は社伝によると永正2年(1505)となっていますが、郷土の民話「狐の恩返し」に関連して、狐の子孫といわれた戦国武将の栗林義長が天文7年(1538)に創建したという説もあります。
いつの時代か、原火事の類焼で社殿が全焼し、その後は馴馬村在住で稲荷信仰に篤い松田次左衛門がお宮を建て手厚く守護したといいます。ところが、幕府から俗家の身で神社を守護するとは遺憾であるとお触れがあり、同じ馴馬村の天台宗寺院、来迎院に守護を引き継いでもらいました。これにより、女化神社は日枝神社と共に来迎院が別当を務める馴馬村の鎮守となりました。その後ふたたび原火事の類焼で社殿が全焼し、来迎院の呼びかけで文久2年(1862)馴馬村の名主山崎茂右衛門などの寄進により社殿が造営されました。また、来迎院が別当を務めていた時代は初午の祭礼でお寺から女化神社まで神輿の渡御が行われたといい
ます。
ところが、明治の神仏分離令によって、来迎院から独立した神社となります。その後も女化神社は馴馬村の村社として祀られ、その一角は現在でも龍ケ崎市馴馬町の飛び地となっています。
現在の社殿は平成14年(2002)に再建された比較的新しい建造物です。なお、渡御に使われた神輿は社殿裏手の小屋で静かに眠っています。