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龍ケ崎ヒストリー第16回

「道仙田の詩人 英 美子」2023年8月号

英美子(はなぶさよしこ)本名中林文、静岡市出身、西條八十の導きで詩の世界に入りました。戦後は『日本未来派』同人として活躍。晩年はマドリード・アテネオ劇場で自作詩朗読リサイタルを行う等、昭和58年に亡くなるまで第一線で活躍されました。享年90歳。一人息子は中林淳眞(あつまさ)現役のギタリストとして今も活躍。

美子は昭和20年4月、東京本郷から戦火を逃れるため、リヤカーに家財道具一式を詰め、旧制中学を卒業したばかりの息子淳眞と共に、2昼夜かけ茨城県筑波郡久賀村(現取手市新川)にやってきました。仮住まいは淳眞が見つけた新川の三角州に建つ廃屋同然の集会場で家賃はタダでした。

美子は戦争が終わったら直ぐにでも東京に帰るつもりでした。ところが鮒釣にのめり込み、もっと鮒のことを研究したいと主張する我が子のために、この地に身を置くことを決心しました。

昭和24年川原代村道仙田(現龍ケ崎市川原代町)の旧小貝川のほとりに三間ほどの小さな家を建て住居と定めました。淳眞は釣り仲間との共同出資で旧小貝川道仙田地区の管理権を取得しました。年々増える無謀な釣師に注意をする等、入漁料を取って釣り場を管理するのは主に美子の役割でした。釣師からはうるさいババァと罵られる。窓から聞える淳眞のクラッシクギターは場違いで煩(うるさ)いだけ。釣り仲間からはもっぱら変わり者親子と思われていたようです。

主な収入は淳眞の漁師としての腕で、この時代は鮒などの川魚が高く売れたようです。そのほかにも音楽学校に通う傍ら、ギターの個人レッスンのアルバイトと超多忙の日々が続き、しだいに淳眞の身体を病魔が蝕んでいました。そんな折、この地方を大豪雨が襲い(昭和25年小貝川の氾濫)、堤防警備に駆り出された淳眞は過労から肺結核に罹り、東京の病院で闘病生活を送ることになりました。

稼ぎ頭を失った一家は、貯えもあっという間になくなり、収入は美子の僅かな原稿料だけとなりました。幸いにも医療費は村の民生部から援助を受けることが出来ました。

母の身を削るような看病と神への祈りが1年以上続きました。はたして、母の祈りが通じたのでしょうか。淳眞は病気に打ち勝ち、笑顔で道仙田の我が家に戻って来ました。ふたたび平穏な日常を取り戻した母子は昭和40年までこの地で過ごしました。

英美子著「春鮒日記」には旧久賀村と道仙田で過ごした日常が記録されています。母子が過ごした旧小貝川のほとりには英美子の詩碑が建っています。