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龍ケ崎ヒストリー第14回
第14回「並木道」2023年4月号
永禄11年(1568)に土岐胤倫(ときたねとも)は、龍ケ崎城の城主になりこの地を支配しますが、当時の城下は度重なる鬼怒川(現小貝川)の氾濫により低地部は沼沢となっていて、人が暮らすには不向きな土地でした。
これを打破するため胤倫は城下の南側に堤防を築き、沼沢を開拓し町づくりを行いました。堤防は馴馬村、龍ケ崎村、大徳村、宮渕村、生板村までの広範囲に及び、これにより頻度の水没はなくなりました。
こうした開拓事業により城下は平坦で町づくりに好条件の土地に生まれ変わりました。そして胤倫は大統寺の創建や八坂神社の遷座、道の整備等、この地の町づくりを精力的に行いました。それが現在の龍ケ崎中心市街地の原型となっています。
江戸時代になると、馴馬から大徳町境界線までの堤防に赤松と黒松が植えられ(諸説あり)、やがて松の巨樹が連なる並木道となりました。
この並木道は大正~昭和期、絵葉書や観光案内などに紹介され、龍ケ崎の名所として、人々に親しまれてきました。こうした経緯から、昭和49年(1974)に、市の木に松が制定されました。また♪若い二人の恋あかり並木の松でチョイト消した♪と、龍ケ崎錦でも唄われております。
なお、並木道の恩恵は近年まで続きます。昭和10年代に2回の小貝川の決壊で、市街地を洪水から守ったのはこの並木道だといわれています。
現在は小貝川の堤防が堅剛になり水害の心配も少なくなり、道の両側には住宅が広がり、生活道路となり、本来の防災の役割は低くなりました。
残念ながら松並木は松くい虫や環境の変化によってほぼ全滅し、往時の面影は殆ど残っておりません。