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龍ケ崎ヒストリー第22回

第22回「分断された高須村」2025年2月号

明治、大正、昭和にかけて利根川の大々的な改修工事が、3期に分けて行われました。小貝川の水害も著しく、特に常磐線鉄橋付近から利根川との合流地点までがたびたび氾濫を起こしました。それは増水時の利根川の逆流が大きな要因となっていたからです。こうした理由から、小貝川下流部分の改修工事は利根川改修2期工事の関連事業として行われました。区間は常磐線鉄橋より下流とし、堤防をより強固なものにすることと、氾濫が著しい高須村の湾曲部分をまっすぐな流路に改修することでした。

工事は大正3年(1914)年に始まり、竣工は昭和5年となっていますが、高須村の河川付け替えは大正11年(1922)に終了しました。

工事以前の高須村は、東側の村の境界線が小貝川の湾曲に沿って現在の龍ケ崎市域に出っ張っていました。この湾曲した部分が流路変更でショートカットされ、高須村を東西に分断することとなりました。川の西側地区(村の主要地域)は今まで通りの相馬(藤代)生活圏で、東側地区は龍ケ崎生活圏となり生活環境が大きく変わりました。

そして龍ケ崎市発足から1年後の昭和30年(1955)、西側地区は相馬町ほか5町村と合併して藤代町(現取手市)高須,大留,押切,神浦となり、東側は住民の意思により大部分は龍ケ崎市北文間地区に併合され、龍ケ崎市高須町及び大留町となりましたが、一部の住民は藤代町を選んだのです。住民の意思で市域の境界線が引かれたため、特に龍ケ崎市大留町と取手市大留の境界線が複雑に入り組んでおります。

なお、河川のショートカットにより、堰き止められた部分は旧小貝川と呼ばれ三日月湖を形成しています。三日月湖は豊田堰から水を引き込んで灌漑用ため池として活用されることになりました。