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龍ケ崎ヒストリー第21回

第21回「龍ケ崎陸軍秘匿飛行場(八原飛行場)」2024年11月号

昭和20年(1945)の八原村の地図を見ると、貝原塚字女化付近に何やら十の字になった滑走路のようなものが描かれています。それは紛れもなく滑走路で、敗戦間際の帝国陸軍が本土決戦に備えて整備させた特攻部隊の発進基地でした。当時の八原村字貝原塚に所在したことから八原飛行場あるいは貝原塚飛行場ともいわれています。このような飛行場は全国に40か所計画されましたが、いずれも突貫工事だったのでどの程度が完成したか分かっておりません。

エリート情報社「女化土づくりムラづくり苦闘百年」によると、八原飛行場は昭和19年、伊藤農場を中心に飛行場の建設が始まり、近隣からたくさんの人が勤労奉仕に動員され、その中には中学生や、朝鮮人徴用工もいたそうです。作業はほとんどが手作業で、木を伐り、株を抜き、雨の日も休みなしの突貫工事が続けられたとのことでした。

完成した滑走路は東北から西南へと西北から南東への2本で、未舗装の踏み固めただけの粗末なものでした。いずれも長さ1.5km、幅100m。2本の滑走路は現在の東洋鍛工(株)付近(貝原塚町3711)で交差していました。そのほか誘導路が造られ、周辺の森の中には飛行機の掩体壕(えんたいごう)が掘られました。そして誘導路は一般道路のように偽装されていました。完成後、試験飛行で複葉機が一機飛来しただけで、実戦では一度も使用されることなく終戦を迎えました。

秘密時に造られた飛行場でしたが、アメリカ情報部は秘匿飛行場の存在に気が付いていました。アメリカ空軍が、昭和20年に八原村上空から写した偵察写真にそれらしきものがはっきりと写っていたからです。

現在飛行場跡地を歩いてみても、その遺構を見つけることは出来ません。戦後すぐに黒田清氏を中心とした農地開拓が行われ、滑走路や掩体壕等様々な遺構は消滅し、八原開拓農地に生まれ変わったのです。こうした秘史は中貝原塚区集会場前の開拓記念碑に刻まれています。

それから約70年が経過した現在、八原開拓農地の南半分はニュータウンの造成により大きく様変わりしました。なお、押木たまご屋(貝原塚2971)前の南北の道を境界線とし、西側は津田出(つだいずる)による明治の女化開拓農地で、東側は戦後の八原開拓農地と大雑把ですが区分けすることが出来ます。 

昭和20年八原村地図(地理院地図)