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龍ケ崎ヒストリー第19回

「英美子(はなぶさよしこ)が見た竜ヶ崎鉄道の情景」2024年6月号

麦と菜種とれんげ草の色彩の平面図。その彼方にいぶし銀の微笑を湛えて眠たげに見えるのは、寮から間近い牛久沼。それからずっと手前に視線を引いてきて、浅黄色の細いリボンを流す江川用水を一筋加えたこの風景は、まず九十点の自由画というところでしょうか。そして麓から左側には、竜ヶ崎の一角が忘れずに点描されているし、右手の佐貫駅からは竜ヶ崎町へと向かう竜ヶ崎鉄道(小型で明治時代の遺物)が、ときどき玩具めいた警笛を鳴らし、体に似合わない黒煙を吹き出しながら、お愛嬌にのろのろと通っているのでした。

以上、英美子随筆『春鮒日記』より原文通り

これは昭和20年(1945)、詩人英美子が筑波郡久賀村(現取手市新川)に疎開中、若柴の丘で見た光景を綴った一文です。

疎開という不自由な生活の中で、煮炊き用の薪さえも自分で集めなければならない。英は『春鮒日記』の中で若柴の丘へ薪拾いに行ったことを綴っています。其処はお気に入りの場所であり、何よりも寮といわれている寓居から近い薪場だったので何度も薪拾いに行ったようです。場所は特定出来ませんが牛久沼と龍ケ崎市街地を一望出来る丘は、民家の裏山を除外すると金龍寺付近しか考えられません。そこから眼下に広がる馴柴村の光景は戦時中とは思えない長閑さがあったようです。いぶし銀の微笑を湛えた牛久沼、リボンと表現する江川に、何よりも、玩具のように小さく見える竜ヶ崎鉄道の蒸気機関車がのろのろ行く光景。これら総てが彼女にはおとぎの国のように映ったのでしょう。現在は雑木林に覆われて、このような180度のパノラマを眺めることは出来ません。

竜ヶ崎鉄道のこの当時の正式名は鹿島参宮鉄道竜ヶ崎線で、C型タンク蒸気機関車が運行されていたようです。これは4号機関車と呼ばれ、大正14年(1925)に製造されたものですが、東京での生活が長かった英にとって、見慣れないC型タンク機関車は明治の遺物に見えたのでしょう。現在は歴史民俗資料館にて常設展示されています。

終戦後、英は東京に帰らないで、川原代村道仙田の旧小貝川のほとりを住居と定め、昭和40年(1965)までこの地で過ごします。最寄り駅の入地より徒歩20分。東京に出かける時の不便さを嘆いていましたが、やはり竜ヶ崎鉄道とは縁があったようです。